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てくてくの歴史

アジアやアフリカをフィールドにしていた旅は、ここ長野県飯田市での「てくてく」というお店の旅にかわりました。
てくてくと、ゆっくり、足を地につけながら、この「てくてく」という旅を続けていこうと思います。

旅のはじまり

1982年2月12日、人生ではじめて乗った飛行機がマニラで故障。
タイのバンコクに着いたのは翌日夕刻。
すでにバンコク発カルカッタ(いまのコルカタ)行きのバングラデッシュ航空機は飛び立った後。
次の飛行機は1週間後まで飛ばないとかで、右も左もわからないまま夜のバンコクに放り出されたのが、私の卒業記念旅行の始まりでした。

子供のころから旅行が大好きでした。自然の中に身を置くのが大好きで中学・高校は登山部。
大学に入ってからは、簡易テントと寝袋を担いで日本中ヒッチハイクや鈍行列車で知らない町や村をたずねて歩きました。

子供のころからの憧れだったエベレスト。そこに登るのはかなわないにしてもせめて間近で見てみたい、そして、禅師だった祖父の影響から、お釈迦様の足跡も訪ねてみたいとの思いから、大学卒業から就職までの2か月弱の休みを利用してインド・ネパールへ単身旅行することを決意して旅立ったのが、何故かまったく未知の国タイへ放り出されてしまいました。

とりあえず一日目はなんとかバンコクの宿を見つけ投宿しましたが、もともとが学生の身分、こんな物価の高い街じゃ1週間のうちにお金を使い切ってしまいます。
あわてて汽車に飛び乗って適当に見当をつけ、たどり着いたのがタイ中央部ナコンサワン県の小さな田舎町。
改札口を抜けると目の前の食堂で若者たちが卓を囲みビールを飲んだり焼そばを食べたりしています。

手招きのままに吸い寄せられると、やれどこから来た?タイ料理は初めてか?一緒に食え、何の目的でここに来たのかと質問の嵐です。

みんな好き勝手にしゃべっている中でひとりだけ英語しゃべれる女の子が通訳してくれて、なんとなく成り行きで彼女の家に泊めてもらうことになりました。

タイで人生一番の衝撃を受けた話

彼女の家はお寺のわきの小さな運河のほとりにありました。
まんなかに広場を囲み、8~9件の粗末な家が立ち並んでいます。そしてその住民たちが家族でないのにまるで家族としてふるまっているのです。

仕事がある男たちが帰ってくると、その日に稼いだ日銭を出し合い、女たちが市場に出かけ、米や野菜やフルーツ、時には生きたままの鶏やカエルまで買ってきます。

また、仕事のない若者たちは一緒に借りている小さな畑で採れた野菜や芋をもって帰ってきます。
それを料理しているあいだ娘たちは小さい子供たちを連れてチャオプラヤ川のほとりへ出かけます。

川の水で幼子たちの体を洗い、大河に落ちる真っ赤な夕陽を眺めながら、小さな子たちにおかゆを食べさせ、とりとめのないおしゃべりをしたあと、ゆっくりと腰を上げ家路に戻ります。

家に戻ると広場に作ってあるあずま屋でみんなが集まりみんな一緒にご飯を食べます。

ご飯の後は夜遅くまでギターとピンやケーンという楽器と、おしゃべり。夜が更けると三々五々床へと散って行きました。

私がお邪魔していたタイでの一週間、毎日毎日同じような日常が繰り広げられていました。

プライバシーはない、未婚の母がいればレディーボーイもいる。仕事もなければお金もない、でも優しさにあふれ、隣人愛にあふれ、愉快で、楽しくて幸せな生活。
ここが世界のパラダイスだ
と強く感じ、この日が私の人生のターニングポイントになりました。

そしてまた日本へ

その後日本に帰って普通に就職して会社勤めをしましたが、あのタイでの生活を忘れられず、一年で会社を辞め、再びタイへ向かったのが翌83年4月のことでした。
タイの後訪ねたインド、ネパールでも、またその後訪ねたアジアのほかの国の村々でも田舎の暮らしは同じように、日本からは失われた「モノ」ではない豊かさにあふれていました。

その頃は日本での暮らしが嫌でたまらず、夜勤や工事現場でのアルバイトでお金を貯めては、日本から逃げるかのようにアジアやアフリカをお金が続く限り放浪してまわりました。

観光地や都会は素通りして海辺の小さな漁師町や、ヒマラヤの奥地の小さな村、サバンナのまんなかにポツンとある集落ばかりを訪ねて歩きました。

しかし、旅人はいつまでたっても旅人です。そこに生活があるわけでもなければ仕事があるわけでもありません。
こんなことをいつまでも続けていていいのかなという気持ちが次第に大きくなっていったある日、松本の知り合いから、有機野菜のお店を開くから手伝わないかと誘いがありました。

アジアやアフリカの旅は楽しく愉快なものでしたが、その一方で気候の厳しさ、治安の悪さ、医療や衛生事情の心配などのリスクもありました。
逆に日本の暮らしを考えてみると、快適で安全で安心できて、何より私の住んでいる中部日本の風土気候は、世界的に見ても「完璧!」に近いものだと思います。
暑すぎず寒すぎず、四季がはっきりしていてそれぞれに風情があり、山むらさきに水清く、砂漠もなく砂嵐も吹かず、半年雨が続くこともなければ空気も薄くない、主食はタロイモでもトウモロコシ粉でもなく、このおいしいお米!豆腐や味噌などのは発酵食品がうまくおまけに漬物もうまい。
あの初めて出会ったタイの田舎町でのライフスタイルを、この日本でできれば、すなわち

こここそがほんとうのパラダイス!


そんな思いを胸に、体とともに心も日本に戻ってきたのが1988年の春でした。

自給自足の暮らしを体験して

松本では八百屋の仕事を手伝いながら山の中で農的暮らしにトライしてみました。

畑を耕し、ヤギと鶏のいる暮らし。暖房と調理は薪ストーブで、電気を消せばあるのは星明りのみ、ラジオのスイッチを切れば聞こえるのは小川のせせらぎとフクロウの鳴き声だけ。

1月から3月まで八百屋はお休みだったので、冬はゆっくりゆったりとした時間に包まれていました。

秋に収穫したジャガイモや、買いためておいた小麦粉を主食に、ヤギのミルクと薪の爆ぜる音。

世はまさにバブル期の絶頂、そんなときにほとんどの時間を世間から離れて静かに暮せたのは、その後の人生にとって大きな糧となりました。

その後今のパートナーと出会い、ネパール・タイ・マレーシアへの新婚旅行のあと、ここ伊那谷に居を移し有機農業の畑をやりながら、今度は中央アルプスのふもとの集落で再び薪ストーブと山羊と鶏の農的暮らしが始まりました。

暮らすことと仕事を考える

家族写真

ところが、人生そんなに甘くはありません。素人農家が作った虫だらけのみすぼらしい野菜が売れるはずも無く、自分たちの熱意も中途半端だったのを見透かされるかのように、野菜を売って生計を立てるというプランはあっという間に破綻してしまいました。

ほとんど貯金も無く生まれたばかりの長男を抱え、家計は坂道を転げるように先細っていきました。

近くに自然食品や有機野菜などを販売するお店も無く、高い運賃を払って(その頃は今よりずっと送料が高かったのです。)東京から有機食材を購入していましたが、そのためのお金もなくなりました。

エンゲル係数は限りなく100%に近くなり、弟の結婚式に出るために親に金を借り、弟本人から礼服を借りる始末でした。

これではいけない・・・なんとかしなければ

そこで私たちはプランの変更を決意しました。

決意

まず、自分たちの食べたいものを自分たちで確保する!

仕事=就職という発想もなく、また松本の有機八百屋で自分で起業する姿を目の前で見てきた私たちは、地元で有機栽培された野菜や、国産の大豆で作った天然の味噌や、天然酵母と国産小麦で作ったパンを販売することを決意しました。

まずは、4万円で譲ってもらった軽トラックに、ホームセンターで買ったパイプとビニールシートで作った幌を載せ、仕入れの元手として親戚から40万円を融資してもらいました。

軽トラック写真

親戚から借りたお金は、佐久の障がい者施設で作っているお味噌、松本の共同作業所の石けん、曹洞宗ボランティアやシャプラニールなど古くからやっているフェアトレード団体のカレーやコーヒーなどを買い付けました。

そして地元の有機農家からつけで仕入れた野菜や、自分で焼いたパンのほか調味料や嗜好品など 18品目を軽トラックに載せ、知り合いの家を一軒一軒訪ねては売り歩くことから始めました。

まるで車に乗らず足で歩いて進むような仕事のテンポじゃない・・ということで

「てくてく」と歩くテンポ

てくてくという店舗

で「てくてく」は誕生しました。

訪ねた先では

「何か買ってあげたいけど、ほしいもの何もないのね」

「お店屋さんごっごしているみたいね」

「すぐにつぶれるかと思っていた」

などと言われながらも、お客さんがお客さんを紹介してくれて少しずつ販路が広がり、1991年6月スタート時に6万円だった月の売り上げは年末には100万円の売り上げになりました。

アイテムも増え、軽トラックに載せきれなくなったため、地域の中核都市である飯田市に店を構えたのが、1993年4月。

まだまだ貧乏だったため冷蔵庫は家庭用のもの、商品棚はホームセンターで買った板材で作ったもの、パンを載せる台は拾ってきた電線コイル。

レジを打つのも初めてなら、ちゃんとした帳簿のつけかたもわからないという状況からのスタートでした。

お店づくりのモットーは「ひろう」「もらう」「つくる」これは当時の貧乏起業家たちの合言葉にもなりました。

その後も順調とはいえず、起業当時からのよき理解者だった義父を亡くしたり、子供のアトピーで苦労したり、主要な仕入れ元が倒産したりと紆余曲折もありましたが、ゆっくりながらも、てくてくと歩みを進め今日に至っています。

インターネット販売をはじめたころ・・そして今

1997年にはネット販売も始めました。最初は地元で売り切れない野菜をセットにして販売しましたが1年間で売れたのは1件だけ。しばらくはそんな状態が続きました。

ブレークしたのは、1999年に発刊された「買ってはいけない」の中のコラムに一言だけ載っていた「布ナプキン」の記事でした。

そのころ、インターネットで布ナプキンを販売していたのは「てくてくねっと」(てくてくのネット販売部門です)だけだったため、一生懸命検索してたどり着いてくれたお客様が布ナプキンを購入して、口コミでまたその輪が広がり、その後の布ナプキンの普及に大きな役割を果たしました。

布ナプキンは、販売店も多くなり量販店や大手通販も参入して、以前ほどの勢いはなくなりましたが、今でも「てくてくねっと」の主力商品のひとつです。

現在「てくてくねっと」の商品アイテムは約4000点、マクロビオティック食材やフェアトレード商品、オーガニック食品、環境に配慮したエコロジー雑貨など、どれも作り手と使い手の気持ちや価値観を大事にした商品ばかりです。

アジアやアフリカをフィールドにしていた旅は、ここ長野県飯田市での「てくてく」というお店の旅にかわりました。

まだ、あのタイで経験した愉快で、楽しくて幸せな空間は見つけ出せたとはいえませんが、てくてくと、ゆっくり、足を地につけながら、この「てくてく」という旅を続けていこうと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

そして少しでも私たちの思いをシェアしていただくことができましたら、望外の喜びです。



ありがとうございました。

2011年10月14日

冷えとりとやさしい暮らしの店「てくてくねっと」オーナー
有限会社てくてく 代表

立田秀信